ちょっこす早いけど今年度の総括。のふりした駄文

 今年度は多忙な年だった。学生であることを終えた日から少なくない年月が経ち、その間にフリーターになり無職になり起業準備中になり去年の始め頃に起業届けを出した。世の中では日経が回復したり落っこちてみたり新卒採用数が増えたりしている間に僕は母親と彼女以外とほとんど会話をしないという生活を送りそんな日々を送るうちに自分にとってはそっちの方が至極当然のように思えてきた。もともと学生時代から話の合う友達なんていなかったし趣味は人と合わなかった。当然のごとく今現在の定期的な交流は無い。極々たまに会うけど。学校のことなら話題あるけど卒業したら別にどうでもいいことばっか。きっと僕がひどい人間なんだろう。みんなで一緒に歩いて学校に行ってるのに途中でうざくなって一人でさっさと歩いていったり、まともな神経の人はしないんだろう。傍から見たらどこのでもいる人間なんだから大人しくしてればいいのにアホみたいな中学入ったりアホみたいな高校入ったりアホみたいな大学入ったりしたからいけないのだ。学生のうちにもっと一人でいることに強くなっておけばよかった。一人でランチできる人間になっておけばよかった。群れるの嫌いなんだから。中途半端に一緒に話したり飯食ったりする人間関係を作ったのがいけなかった。
 人間の本来性というものを良く考える。人間は本来自営であるべきだ。人間が1人しかいないのであれば採用してくれる会社なんて無いわけだから自分で自分のご飯を稼がなければならない。そう考えれば会社員は本来性を失った人間だ。(暴論)というわけで僕は少しだけ本来性を獲得した。さて、人間は本来集団で生きる生き物かそれとも群れない生き物か。群れる様に進化している途中かなと思う。最近殺し合いとかあんましないし。まああれは集団の中での殺し合いかもしれないけど。とりあえずまあ群れなくても生きていけるんじゃないかと思って引きこもり自営としてちょっとやってみるよ。

 話は変わるけど、昔は詩作や小説を言葉の耐震強度検査みたいなものだと思っていたよ。1っこの使い古された単語をどのようにして表現に使うかの腕の見せ所だと思っていたよ。バカだな俺。違うね。詩作は死んだ言葉の頬面を引っ叩き本来の意味を回復させる作業だ。要旨のみを伝える為の事務的な文章の中で死姦されまくった言葉に対し、優しく接するわけではなく叩き付ける事で甦らせ回復させ打ち上げることだ。って昨日思い出した。なんか詩論の本読んでいるうちにそんな記述無いのに自分が間違ってたってオモタ。何でだろう。まあきっとこんな考えもそのうち変わるんだよこれが。