新潮5月号をぱらぱらとめくっていたら「川本真琴」という字の並びを発見した。喜多ふありという人の「終わり、」と「終わり。」というタイトルの短いエッセイの冒頭。見間違えかと思ってもう一度見ても「川本真琴」で間違えなかった。つい最近「トーマス・マン」のことばかり考えていた人が街中でふとその文字を見つけたかと思ったら「トマト・ソース」だったという文章を読んだばかりだったので、自分にもその現象が起きてしまったのかと思った。

川本真琴が九年ぶりにアルバムをリリースした

たったこれだけの情報だけど、あまりにも世の中に知られていないことなので、ふとこういう文章を見つけるととても気分がいい。川本真琴に関する記述は話の枕であって本題はこの後なので、本来ならこの文章にそれほど用はないんだけど、本題の方に書いてあることが間違っていると思った。

この文章はフジファブリック志村正彦の追悼文であるのだが、没年月日でヤフー検索しても志村正彦のことが出てこない、と書いている。でも、日付というのは表記ゆれがあるし、没年月日なんてたまたまの日付で本人も意識してないだろうしその人のアイデンティティではないと思うので、それで検索するというのは何の意味もないと思う。その日というのは他にも色々なことが起きててていろいろな人が死んでていろいろな人が生まれているわけで、志村正彦だけの日ではない。誰かの死んだ日は誰かの誕生日なわけで、死んだ人のものだけにしてしまうにはあまりにも大きすぎる。いろいろな人の没年月日で検索を試してみたが、その結果は志村正彦の没年月日と大して変わらなかった。マイケル・ジャクソンも。日付でググって引っかかる物なんて、1995年1月17日 位のレベルでないと。願望として引っかかって欲しいと思っても、検索エンジンさんは正直だ。

この後の文章で、「終わり、」と「終わり。」 というタイトルになったように、一般的な終わりを「終わり、」 人の死を「終わり。」と書いているのだが、志村正彦の死は「終わり。」ではないと思う。音楽は聞かれるし、小説家は追悼文を書くし、CDはどこかで回っている。それらが全部止まった時が「終わり。」だと思う。「終わり、」と「終わり。」をよんで、志村正彦の生きていた証を見つけて嬉しくなったフジファブリックファンもいるだろう。そういう人達がいる限り「終わり。」は無い。

2009年12月24日で検索して「志村正彦」を見つけられなかった筆者に対して、たまたまめくった文芸誌で「川本真琴」という活字を見つけて嬉しくなった私がいたよ、ということをここに書いておきたい。あなたが書いたことが大事なんだよと、探していれば見つかるよと、検索ぐらいで結論だすなよと。

新潮 2010年 05月号 [雑誌]

新潮 2010年 05月号 [雑誌]

新潮5月号はピンチョン・町田康中森明夫がフィーチャーされています。
アマゾンのレビュー書いている人の文章の中に 「これまで付録としてCDが付いた文芸誌があっただろうか。」 っていうのがあるんだけど、私の知る限り同じ新潮の2008年1月号に付いてましたよ。